長与三彩(西彼杵郡長与町の施設景観)歴史的建造物

長与三彩(ながよさんさい)は長崎県西彼杵郡長与町にあります。ここは施設景観です。「歴史的建造物」などとなっています。

16世紀末の肥前地方での焼物界の様相は、 唐津系陶器窯の一部ではそれまでの陶器に換わって磁器が焼かれるようになり、 その傾向は17世紀になるとますます助長されて、 量産化体制に備えての窯場の整備が行われるようになった。 これはヨーロッパ社会がこれまでの中国陶磁器に換わって、 日本にその代用を求めるようになったからである。 肥前地方の領主たちは利益を得るために積極的にその転換を図ったが、 当時はまだ日本人の生活では磁器の使用は一般的には浸透しておらず、 そのために肥前の窯場では藩の保護を受けた磁器窯と、 日本人の生活食器を焼く陶器窯の集団が存在するようになった。 特に燃料の薪を必要とするところから磁器窯は優遇され、 陶器窯は地方へ分派する傾向を示していった。 町内の嬉里郷字田尾に窯跡を残している長与皿山は、 そのような背景のもとに開かれたのである。 江戸時代に大村藩が編纂した『大村郷村記』によると、 寛文7年(1667)に浅井角左衛門・尾道吉右衛門・山田源右衛門・尾道長左衛門の願い出によって始まっている。 ちなみに浅井角左衛門とは鯨組の頭領として名高い2代目深沢儀太夫勝幸のことである。 この時に焼かれた製品については陶器・磁器のいずれかはまだ判然としない部分があるが、 操業期間については同じ『郷村記』の中に記されている元禄9年(1696)と同11年の2回にわたって、 焼物生産の生命とも言うべき原料の中尾土を諫早領の現川窯の陶工たちに譲渡していることからおよそ30年間の操業であったろう。 その後正徳2年(1712)には同じ大村領内の波佐見から太郎兵衛がきて窯を再興し、 18世紀中頃には窯の経営も順調となり盛んに藩外にも売りさばかれるようになったが、 19世紀に入ると焼物の値段が下がったために窯の経営は苦しくなり、 文政3年(1820)に生産を中止した。 この時期には大坂で人気があった「お笹紅」の容器を注文で作ったり、 安永4年(1775)には伊予大洲藩領の砥部に白磁焼成の指導のために陶工を派遣している。 また長与焼を代表する「長与三彩」の製品もこの時期に作られたのである。 長与三彩についてはこれまで『郷村記』に寛政4年(1792)に長与村の市次郎が珍しい焼物を焼いたという記載から、 これが長与三彩の始まりであると言われてきたが、 平成3年(1991)に熊本県天草の上田家に保管されていた古文書の、 『近国焼物大概帳』が紹介されてこのことを補強することとなった。 これは寛政8年(1796)に天草郡高浜村焼物師伝九郎と同村庄屋の上田源作から、 島原大横目の大原甚五左衛門に提出されたものの写しであるが、 その中で長与皿山についての文中に「此所チャンパン焼物師壱人大村より御扶持頂戴帯刀御免之仁有之』とある。 チャンパンとはチャンパあるいはチャボと呼ばれて現在のヴェトナム地方を指す言葉で、 そこは16世紀後半から17世紀前半にかけて朱印船貿易で日本にもたらされた「交趾三彩」と呼ばれる焼物と深い関わりがあるところである。 この三彩の焼物は日本で好き者に珍重されたため、 京焼や四国の源内焼で盛んに模した三彩の製品が作られた。 古文書の年号は『大村郷村記』に記された寛政4年(1792)からわずか4年後に書かれたものであり、 これらのことから推察すると長与三彩は、 交趾三彩の技術をもとにして出現したことが十分に考えられる。 弘化2年(1845)には再興窯を開いた太郎兵衛の子孫になる渡辺作兵衛によって再再興が行われたが、 その操業は小規模で安政6年(1859)には閉窯している。 製品には白磁染付類や当時長崎で焼かれていた亀山焼(1807~1865操業)や鵬ヶ崎焼(1823~1852操業)、 あるいは古いところの現川焼(1691~1749頃操業)などを模したものなどがある。 伝承によれば明治期に土管や水がめ類を焼いたと言われるが、 現在までのところではそれらを確証する根拠はまだ無い。(*1)

近くの住所には、嬉里郷(683 m)丸田郷(1.28 Km) などがあります。近くの施設やイベントには、長与シーサイドストリート(0 m)天満宮公園(0 m) など があります。(2015-05-29 11:49:34時点)。
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1 施設

この施設/場所の基本情報です。市区町村都道府県のリンクから その地域のカテゴリーと種類の情報を見ることができます。

1 名称 長与三彩
2 よみ ながよさんさい
3 住所 西彼杵郡長与町
4 ホームページ URL http://webtown.nagayo.jp/machi_syokai/konnamachi/sansai/index.html
5 市区町村 西彼杵郡長与町
6 市区町村(よみ) ニシソノギグンナガヨチョウ
7 都道府県 長崎県
8 都道府県(よみ) ナガサキケン
9 場所の種別 施設景観
10 緯度・経度 32.8252247, 129.8750026
11 緯度経度の精度 APPROXIMATE
12 更新日付 2015-05-29 11:49:34

2 地図

住所を元にした地図

緯度・経度を元にした地図

3 オープンデータの一覧

No. 種類 カラムデータ
1 ジャンル 歴史的建造物 歴史的建造物
2 基本情報 説明 16世紀末の肥前地方での焼物界の様相は、 唐津系陶器窯の一部ではそれまでの陶器に換わって磁器が焼かれるようになり、 その傾向は17世紀になるとますます助長されて、 量産化体制に備えての窯場の整備が行われるようになった。 これはヨーロッパ社会がこれまでの中国陶磁器に換わって、 日本にその代用を求めるようになったからである。 肥前地方の領主たちは利益を得るために積極的にその転換を図ったが、 当時はまだ日本人の生活では磁器の使用は一般的には浸透しておらず、 そのために肥前の窯場では藩の保護を受けた磁器窯と、 日本人の生活食器を焼く陶器窯の集団が存在するようになった。 特に燃料の薪を必要とするところから磁器窯は優遇され、 陶器窯は地方へ分派する傾向を示していった。 町内の嬉里郷字田尾に窯跡を残している長与皿山は、 そのような背景のもとに開かれたのである。 江戸時代に大村藩が編纂した『大村郷村記』によると、 寛文7年(1667)に浅井角左衛門・尾道吉右衛門・山田源右衛門・尾道長左衛門の願い出によって始まっている。 ちなみに浅井角左衛門とは鯨組の頭領として名高い2代目深沢儀太夫勝幸のことである。 この時に焼かれた製品については陶器・磁器のいずれかはまだ判然としない部分があるが、 操業期間については同じ『郷村記』の中に記されている元禄9年(1696)と同11年の2回にわたって、 焼物生産の生命とも言うべき原料の中尾土を諫早領の現川窯の陶工たちに譲渡していることからおよそ30年間の操業であったろう。 その後正徳2年(1712)には同じ大村領内の波佐見から太郎兵衛がきて窯を再興し、 18世紀中頃には窯の経営も順調となり盛んに藩外にも売りさばかれるようになったが、 19世紀に入ると焼物の値段が下がったために窯の経営は苦しくなり、 文政3年(1820)に生産を中止した。 この時期には大坂で人気があった「お笹紅」の容器を注文で作ったり、 安永4年(1775)には伊予大洲藩領の砥部に白磁焼成の指導のために陶工を派遣している。 また長与焼を代表する「長与三彩」の製品もこの時期に作られたのである。 長与三彩についてはこれまで『郷村記』に寛政4年(1792)に長与村の市次郎が珍しい焼物を焼いたという記載から、 これが長与三彩の始まりであると言われてきたが、 平成3年(1991)に熊本県天草の上田家に保管されていた古文書の、 『近国焼物大概帳』が紹介されてこのことを補強することとなった。 これは寛政8年(1796)に天草郡高浜村焼物師伝九郎と同村庄屋の上田源作から、 島原大横目の大原甚五左衛門に提出されたものの写しであるが、 その中で長与皿山についての文中に「此所チャンパン焼物師壱人大村より御扶持頂戴帯刀御免之仁有之』とある。 チャンパンとはチャンパあるいはチャボと呼ばれて現在のヴェトナム地方を指す言葉で、 そこは16世紀後半から17世紀前半にかけて朱印船貿易で日本にもたらされた「交趾三彩」と呼ばれる焼物と深い関わりがあるところである。 この三彩の焼物は日本で好き者に珍重されたため、 京焼や四国の源内焼で盛んに模した三彩の製品が作られた。 古文書の年号は『大村郷村記』に記された寛政4年(1792)からわずか4年後に書かれたものであり、 これらのことから推察すると長与三彩は、 交趾三彩の技術をもとにして出現したことが十分に考えられる。 弘化2年(1845)には再興窯を開いた太郎兵衛の子孫になる渡辺作兵衛によって再再興が行われたが、 その操業は小規模で安政6年(1859)には閉窯している。 製品には白磁染付類や当時長崎で焼かれていた亀山焼(1807~1865操業)や鵬ヶ崎焼(1823~1852操業)、 あるいは古いところの現川焼(1691~1749頃操業)などを模したものなどがある。 伝承によれば明治期に土管や水がめ類を焼いたと言われるが、 現在までのところではそれらを確証する根拠はまだ無い。
3 ジャンル 大ジャンル 見る
4 中ジャンル 文化施設
5 管理情報 情報提供元 長崎県西彼杵郡長与町
6 市区町村コード 42,307
7 参照番号 42307KANKO2101230
8 参照枝番 2,101,230
9 最終修正日時 2015-05-29 11:49:34
10 基本情報 名称(よみ) ながよさんさい
11 名称 長与三彩
12 ホームページ http://webtown.nagayo.jp/machi_syokai/konnamachi/sansai/index.html
13 写真 著作権有無
14 写真
15 写真の名前(よみ) ながよさんさい
16 写真の名前 長与三彩
 

4 町域の一覧

No. 市区町村 町域 距離
1 西彼杵郡長与町 嬉里郷 683 m
2 丸田郷 1.28 Km
3 まなび野二丁目 1.44 Km
4 まなび野三丁目 1.6 Km
5 吉無田郷 1.83 Km
6 三根郷 1.85 Km
7 まなび野一丁目 1.87 Km
8 西彼杵郡時津町 浜田郷 1.9 Km
9 西彼杵郡長与町 高田郷 2.37 Km
合計:

5 近くの施設一覧

No. 名称 住所 種類
1 長与シーサイドストリート (0 m) 西彼杵郡長与町 サイクリングコース
2 天満宮公園 (0 m) 西彼杵郡長与町 フィールド・アスレチック
合計:

6 クレジット

1 名称 公共クラウドシステム | API公開サイト(サイト停止中)
2 オープンデータのページURL https://www.chiikinogennki.soumu.go.jp/k-cloud-api/search/download/
3 ファイル名 kanko_all.csv
4 更新日付 2019-07-10
5 クレジット このページは、次の著作物を改変して利用しています。公共クラウド(総務省)、観光情報、CCライセンス 表示 2.1 日本(http://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/
6 ライセンス 公共クラウド利用規約(https://www.chiikinogennki.soumu.go.jp/k-cloud-api/code/

注釈

  • (*1) オープンデータの情報を引用しています。

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