長浜城跡(沼津市の史跡)史跡

長浜城跡(ながはまじょうあと)は静岡県沼津市にあります。ここは史跡です。「史跡」などとなっています。

この城郭は、戦国時代関東一円を治めた後北条氏の水軍根拠地、重須湊を守るための城と考えられている。  後北条氏の祖、伊勢新九郎盛時(後の早雲)は、興国寺城から堀越公方足利茶々丸の館を急襲し、韮山に城を構え戦国大名としての第一歩を踏み出した。その後小田原を手中におさめ、二代氏綱・三代氏康のころには領地を武蔵から下総(しもうさ)まで広げ、里見氏と激しく対立した。北条氏は三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織し、江戸湾から里見氏の勢力を駆逐する一方、義元亡き後の駿河に侵入してきた武田氏に対しても、伊豆の水軍を組織しその脅威に備えた。その伊豆における北条水軍根拠地の一つが、この重須湊・長浜城である。  このような情勢の中、天正7年(1579)には北条水軍の事実上の統括者である梶原備前守が長浜城におかれ、翌天正8年(1580)、武田・北条両氏水軍による駿河湾海戦が行われた。戦いの結果は必ずしも明らかではないが、この戦いの後武田氏は次第に衰退していく。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、長浜城は再び緊張状態におかれた。しかし、北条方の小田原籠城策に呼応し、水軍の主力も小田原の川岸に集結したことから、長浜城は水軍基地としての機能を失い、韮山開城と共に廃城となったものと考えられている。  また、北条水軍が小田原に集結した後の長浜城を守ったのは、在地土豪大川兵庫を中心とする地元住民だった。その後兵庫の子孫はこの地の津元(網元)として栄え、大川家に残された古文書は、「豆州内浦漁民資料」として近世漁業の実態を知る上で貴重な材料となっている。  この長浜城は通称城山と呼ばれ、以前は三井家の別荘が建っていたが、昭和40年代に取り壊された後は荒れるにまかされていた。昭和60年には市教委による詳細分布調査が実施され、4つの主な曲輪とその他15の曲輪、また、曲輪上の土塁跡や6基の掘切等が確認されている。曲輪の一つ一つは小規模であるが、城郭形式は直線の連郭式で、後北条氏の城郭形式の典型を見ることができる。  その後昭和63年に国の史跡に指定され、平成6年度までには土地の公有化も完了し、平成7年度より保存整備に着手している。さらに、平成14年には追加指定がなされ現在に至っている。  また城の南側、陰野川添いに田久留輪と呼ばれる地域があるが、これは水軍武将の居館のあった曲輪跡であると推定されている。(*1)

近くの住所には、内浦長浜(345 m)内浦三津(1.36 Km) などがあります。近くの施設やイベントには、大川家長屋門(349 m) があります。(2015-02-24 11:53:19時点)。
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1 施設

この施設/場所の基本情報です。市区町村都道府県のリンクから その地域のカテゴリーと種類の情報を見ることができます。

1 名称 長浜城跡
2 よみ ながはまじょうあと
3 住所 沼津市内浦長浜
4 郵便番号 410-0224
5 市区町村 沼津市
6 市区町村(よみ) ヌマヅシ
7 都道府県 静岡県
8 都道府県(よみ) シズオカケン
9 場所の種別 史跡
10 緯度・経度 35.0155213, 138.8963598
11 緯度経度の精度 APPROXIMATE
12 更新日付 2015-02-24 11:53:19

2 地図

住所を元にした地図

緯度・経度を元にした地図

3 オープンデータの一覧

No. 種類 カラムデータ
1 ジャンル 史跡 史跡
2 駐車場 料金有無 無料
3 写真 撮影場所 沼津市内浦長浜
4 撮影年月日 2013.12.31
5 写真の名前 国指定史跡長浜城跡
6 写真の名前(よみ) くにしていしせきながはまじょうあと
7 写真
8 著作権有無
9 基本情報 場所(よみ) うちうらながはま
10 駐車場 場所 内浦長浜
11 都道府県 静岡県
12 郵便番号 410-0224
13 電話番号 055-941-3658
14 名称 長浜観光釣り堀センター
15 市区町村 沼津市
16 普通車の駐車可能台数 10
17 基本情報 名称 長浜城跡
18 名称(よみ) ながはまじょうあと
19 管理情報 最終修正日時 2015-02-24 11:53:19
20 参照枝番 2,092,109
21 参照番号 22203KANKO2092109
22 市区町村コード 22,203
23 情報提供元 静岡県沼津市
24 ジャンル 中ジャンル 文化史跡
25 大ジャンル 見る
26 基本情報 説明 この城郭は、戦国時代関東一円を治めた後北条氏の水軍根拠地、重須湊を守るための城と考えられている。  後北条氏の祖、伊勢新九郎盛時(後の早雲)は、興国寺城から堀越公方足利茶々丸の館を急襲し、韮山に城を構え戦国大名としての第一歩を踏み出した。その後小田原を手中におさめ、二代氏綱・三代氏康のころには領地を武蔵から下総(しもうさ)まで広げ、里見氏と激しく対立した。北条氏は三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織し、江戸湾から里見氏の勢力を駆逐する一方、義元亡き後の駿河に侵入してきた武田氏に対しても、伊豆の水軍を組織しその脅威に備えた。その伊豆における北条水軍根拠地の一つが、この重須湊・長浜城である。  このような情勢の中、天正7年(1579)には北条水軍の事実上の統括者である梶原備前守が長浜城におかれ、翌天正8年(1580)、武田・北条両氏水軍による駿河湾海戦が行われた。戦いの結果は必ずしも明らかではないが、この戦いの後武田氏は次第に衰退していく。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、長浜城は再び緊張状態におかれた。しかし、北条方の小田原籠城策に呼応し、水軍の主力も小田原の川岸に集結したことから、長浜城は水軍基地としての機能を失い、韮山開城と共に廃城となったものと考えられている。  また、北条水軍が小田原に集結した後の長浜城を守ったのは、在地土豪大川兵庫を中心とする地元住民だった。その後兵庫の子孫はこの地の津元(網元)として栄え、大川家に残された古文書は、「豆州内浦漁民資料」として近世漁業の実態を知る上で貴重な材料となっている。  この長浜城は通称城山と呼ばれ、以前は三井家の別荘が建っていたが、昭和40年代に取り壊された後は荒れるにまかされていた。昭和60年には市教委による詳細分布調査が実施され、4つの主な曲輪とその他15の曲輪、また、曲輪上の土塁跡や6基の掘切等が確認されている。曲輪の一つ一つは小規模であるが、城郭形式は直線の連郭式で、後北条氏の城郭形式の典型を見ることができる。  その後昭和63年に国の史跡に指定され、平成6年度までには土地の公有化も完了し、平成7年度より保存整備に着手している。さらに、平成14年には追加指定がなされ現在に至っている。  また城の南側、陰野川添いに田久留輪と呼ばれる地域があるが、これは水軍武将の居館のあった曲輪跡であると推定されている。
 

4 町域の一覧

No. 市区町村 町域 距離
1 沼津市 内浦長浜 345 m
2 内浦三津 1.36 Km
3 内浦小海 1.43 Km
4 内浦重須 1.67 Km
5 伊豆の国市 長瀬 2.19 Km
6 沼津市 西浦木負 2.32 Km
7 伊豆の国市 戸沢 2.43 Km
合計:

5 近くの施設一覧

No. 名称 住所 種類
1 長浜城跡 (0 m) 沼津市内浦長浜 史跡
2 大川家長屋門 (349 m) 沼津市内浦長浜142 史跡
合計:

6 クレジット

1 名称 公共クラウドシステム | API公開サイト(サイト停止中)
2 オープンデータのページURL https://www.chiikinogennki.soumu.go.jp/k-cloud-api/search/download/
3 ファイル名 kanko_all.csv
4 更新日付 2019-07-10
5 クレジット このページは、次の著作物を改変して利用しています。公共クラウド(総務省)、観光情報、CCライセンス 表示 2.1 日本(http://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/
6 ライセンス 公共クラウド利用規約(https://www.chiikinogennki.soumu.go.jp/k-cloud-api/code/

注釈

  • (*1) オープンデータの情報を引用しています。

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